火舎

入水孔と出水孔

本田-Tate理論と数学者の人間としての弱みの話

 何か書くと宣言しブログを作ったきり、長らくブログを放置し続けていたのだけれど、個人的な状況が一段落するので、重い腰を上げて更新を試みている。理由としては、当時は気に入らず放置した、いくつかのゲームについての記事の断片を読んだところ、思いの外面白く感じたため、ちゃんと形にしたいと思ったのである。で、いきなり記事を書くのもしんどいから、負担のない記事をとっかかりにぼちぼち更新していこうという作戦である(こういうことを言っている時点で記事を書かない可能性が非常に高い)。

 本題に移る。以下のPDFは、昨年のMath Advent Calenderで書いた本田-Tate理論の記事の訂正版である。珍しくまとまった量の論文以外の数学の文章を書いたのだが、いくつか誤植や誤りに気づき気になっていたので年度が変わる前に訂正しておきたかった*1。詳細はともかく、良い構図の理論なのでそれだけでも感じ取ってもらえたらなあと思っている。

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 これだけだとあまりにも事務的だし、このブログを読むであろう友人はそんなガツガツした数学の話を読む気もなさそうなので、マキシム・コンツェビッチ*2の言葉がヒソカの念能力による性格診断みたいで面白かったので引用してみる:

 数学者は自分と違う専門の同僚をいくらか軽蔑の眼で眺める傾向にある。あの男のテーマには何の動機づけもないし、退屈きわまりなく見える。一体何がそんなに面白いのだろうか?僕もいろいろなものの隠された美しさを探ろうと試みたが、相変わらず多くの分野では興味の源泉は完全に謎のままである。
 僕の考えでは、人々はあまりにも自分の人間としての弱みを数学上の活動に反映させすぎるのだ。すぐに思い浮かぶ例をあげるならば、ある種の対象の分類という思想は蒐集家の本能の化身であり、最大値の追及は強慾の一つの現れ、計算可能性/決定可能性は完全な支配の希求というわけだ。反復の魅惑はリズムに満ちた音楽による睡眠術に似ている。

 最近の自分の興味は専ら、一般論でコントロールしきれない微妙さを持ちながらも、別側面からはある程度簡単にコントロールできるものに向いている。気持ちとしては、一般論で救われないものにも何らかの救済を与えたいといったところである。コンツェヴィッチの言う"数学上に反映された人間的弱み"を考えると、自身の劣等的な部分*3を何らかの方法で肯定されたいとも捉えられ、救っていた対象は自分自身であったというひどく悲しい話になってしまったし、解釈のしようによっては怠惰の現れとも思える。長いモラトリアム生活を終えて残ったものは、劣等感から逃れたい気持ちや怠惰であったらしい。まあそんなことを自覚しても、それはそれでええんちゃうと思えるようにはなったので、そんな自分の弱みとも仲良くやっていきたいと思う。

*1:まあ読めばわかるけど結構軽いノリの企画の文章なので内容について誰も深刻に考えてないと思うし完全な自己満足ではある

*2:ウィッテン予想を解いたり、攻めた数学概念を無数に提案したりしてる怪人。フィールズメダリスト。ブレークスルー賞も基礎物理学と数学の両方で取っている。下世話な話、諸々の賞金だけでも800万ドル弱貰っててスケール感の違いにびっくりする。

*3:華々しい一般論の苛烈さに真正面から取り組めていない後ろめたさに由来する

シンバルレガートの叩き方

 なんとなくジャズドラムを叩けるようになりたいという欲求を昔から持っているのだけれど、それについて具体的な練習を行うということはあまりしてこなかった。吹奏楽部の時は機会も多くなかったから、なんちゃってスイングのようなものでお茶を濁していた(不真面目)

 ここ数年はドラムセットに実際触れる機会もなく、戯れに練習パッドを弄り、吹奏楽部のときによくやっていたアクセント移動*1やパラディドル*2をなんとなくなぞったり、適当に曲を流して好きにパッドを叩き散らす(ストレス解消に最適)なんてことを週に2,3回やる程度である。

 なんだけれども最近またジャズを漁っていたら熱が戻ってきたので、良い機会だと思いジャズドラムの最も基本的な軸となる「シンバルレガート」(ランタータランタータって感じのスイングっぽいジャズでよく聴くシンバルのアレ)を練習してみることにした。

 といっても習いに行くお金も気力も無いのでYoutubeで良さそうな動画を物色してみた。その中でも下の動画が面白かったので紹介してみる。

www.youtube.com

この動画では、

シンバルレガートの練習に「パラディドルディドル」を応用する方法

を紹介している。これが面白かった。ちなみにこの動画の投稿者の山部三喜男さんは、どうやらドラム講師の方のようである。他にも参考になる動画が多数投稿されていた。ありがたい。

「パラディドルディドル」とは、六連符系のルーディメンツで下の動画プレビューの左上にもあるようにRLRRLLもしくはLRLLRRを繰り返すものである。ドラムセットならば2連の部分だけ同じ太鼓で取って、後は適当にばらけさせるだけで"それっぽい"六連系のフィルインが無限に湧いてくる(いや有限だが)優れものである。

www.youtube.comこれをシンバルレガートに応用する。前提として、最初の動画のPart.1(https://www.youtube.com/watch?v=d1OWTal7lqU)でも説明しているのだが、シンバルレガートと言うものは、下の楽譜(スイングの基本パターン)のRide Cym.と描いた部分のリズムを指していることに注意しておく。

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スイングの基本パターン

ここからわかるとおり、楽譜内の最小単位は8分音符の三連符なのである。これを利用して、パラディドルディドルを応用したものが下図である。

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パラディドルディドルの応用

この練習の利点は

休符の長さを三連符単位でexactに感じられる

・自分がどれくらいのテンポまで上手く熟せるかを把握しやすい

という2点だと思われる。

 一つ目の利点が重要なのは言わずもがなだけれども、自分にとって大きいと感じたの二つ目の利点である。これが意味するところは

・あるテンポのシンバルレガートを綺麗に叩くには、そのテンポのパラディドルディドルが上手く熟せなければならない

である。言われてみれば当たり前なのだが、自分はこれがきちんとできていなかった。なので当面の目標は様々なルーディメンツ(特にパラディドルディドル)のテンポアップである。難しいけど。

 頭拍をずらして刻みの後ろ拍を意識するだけで、機械的だったルーディメンツがスイングに変わるのは刺激的だった(他にも、色々なルーディメンツを任意の部分で切って、面白いノリのループを見つけてみたい)

 しかし、自分の練習不足の致すところなのだが、リズムの感じ方を切り替えるのは言うほど簡単じゃなく、今回のくらいでも違和感なくグルーブがでるようにするのは鍛錬が必要そうである。

 以上だらだらと、少しの配慮と共に書いてみたのだけれども、ドラムについてなんも知らない人が見たら、なんのこっちゃって記事かなあとも思っている。ただ、自分はこういった、切り口を変えると、上手く違う問題に帰着されたりする話が好きなので、自分の好みを伝えようと作ったブログの記事という意味では、強ち間違ってないのではないかなあと思う。これからは、備忘録とモチベーション維持的な意味でも、こういった音楽的なTipsを書いていきたいなあと思っている。

 

*1:適当なリズムの中で強調する音符をずらしていく練習、例えば16分で1小節を埋めたリズムの中で「ザ」をアクセントとして、| ザカタカ / ザカタカ / ザカタカ / ザカタカ | タザタカ / タザタカ / タザタカ / タザタカ |・・・と移動させていく練習

*2:いわゆるルーディメンツと呼ばれるスネアの基本の手順のひとつ。「パラ」は連続した2つの音符を左右交互に叩く(RLもしくはLR)、「ディドル」は同じ手で連続した2つの音符を叩く(RRもしくはLL)という意味で、これらの織り混ざったフレーズをパラディドルと呼ぶ

はじめに

  人はものをすぐ忘れてしまうし、考えなんてものはすぐに変わっていってしまうものである。であるから、考えたことはその時にきちんと記しておくべきである。このような使命感に追われて、ブログを開設した、わけではない。そもそも、なんでもかんでも後から閲覧できるというのは、都合が悪いようにも思える。自分は己の未熟を実感したくない。でもブログをはじめちゃう。なぜか。

 先ほど友人と、ある共通の友人のブログを眺め、その上で行った会話が思いのほか文化的で楽しかった。自分は現金で影響を受けやすい人間であるから、とりあえず自分も……というような気持ちになった勢いもそのままにブログを開設した。そういう訳である。そして、一つの記事もないことに物寂しさを覚えたため、後の記事の言い訳にあたるようなことを書いておけば丁度よいのではないかと思い今記事を作成している。

 経験上こうこうこういうことを書くなどと予定を立ててしまうと面倒さが先だってしまい、書かずに終わるような気がする。実際そのような、「やらず仕舞い」が人生の中に稠密に存在している。したがって、今の段階では何を書くかはあまり決めないことにした。まあ、ただ、文章の練習がてら雑に記事を重ねていきたいなという気持ちだけは表明しておく。これで文章の下手さに目をつぶって貰おうと言う作戦である(女々しい!)。

 言葉は整っていないけれど、言い訳も済んだことだしこれくらいにしておこうと思う。「言葉は整っていないけれど」と書くと終わりの雰囲気が出るので重宝している。こういう言葉を使わずとも綺麗に締まる文章が書きたいものである。